昭和四十三年二月二十五日  朝の御理解

 X御理解第三十六節 「日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ。人にものを頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐにおかげが受けられる。」


  日本国中の神を信心すると言うが、それはあまりもの信心じゃ。よくそんな人がごさいますね。朝、顔を洗いますと、表へ出てから、ポンポン、ぐる-と廻ってから拝む。日本中の神様仏様を拝みよるつもりです、ね。そして、自分は信心深いと思おておる。これでは、おかげにならん。芯と言うたら一つじゃ。例えば、多くの人に物を頼めば、物事相談に暮れて、はかどらずとおっしゃる、ね。大工を雇うても、棟梁がおらなければいけない。一心を出すとすぐに、おかげが受けられるとか、ね。一心と言う、そこでその一心をかけると言う事がですね、信心に、なるほど生神金光大神、天地金乃神一心に、とこうおっしゃるから、生神金光大神、天地金乃神一心に、まあ信心をすると言うことはどういう事か、その一心を出すと、おかげが受けられるとおっしゃる。けど、ほんなら、一心に生神金光大神様、天地金乃神様と一心にその拝んだだけじゃいかん。その一心のかけどころがある、ね。一心のかけどころを、ひとつ今日は、聞いて頂きたい、と。きょうは、青年会、学生会を中心にして体育会が催される事になっとります。総代、幹部の方達が、それに、まあばん送してくださっての事でございます。午後からは、信心研修会、それから婦人部会が一緒に合同して、信心共励になる訳でございます。今日そのことを、私、神さんに、お願いさせて頂きよりましたらですね。お道の青年会の旗があります。青年会旗、三色旗と言う。天は青く、地は、黒く、中紅の、と言う、三色旗であります。これがお道の青年会の旗なんです。天は青く、地は黒く、中紅の、三色旗、ね。天は恵まれるもの、ね。神様がさんさんとして陽光を送って下さる、ね。あらゆる生物が育み、育つ為のお働きを、さんさんとして、送って下さる。。大地は、それを受けて立つと言うか、もう、一切のどう言う、まあ、人間で言うならば、人間のどういうお粗末、御無礼でも、どう言う汚い物でも、黙って受けて下さる。そして、それをしかも、浄化して下さる、ね。天地には、そういう様な働があるのです。天は限り無く与え、恵んで下さる。私供も、これ、人間だけの事でないでしょうけれども、人間、私供がです、ね。お粗末を、お粗末とわかり、御無礼を御無礼と、解らしてもろうて、いわば、詫びれば許してやりたいのが、親心じゃ、とおっしゃる。大地にはそういう寛大な、ね。許しておかげをやりたい、と言う働きをして下さる。どう言う、お粗末、御無礼な人でも、言うなら、どういう大悪人であっても、ね。その人が、例えば、前非を悔いて、とりあえず、「すまん事であった。」と詫びる事に気付かして頂く事によって、大地がそれを寛大に処理していって下さる。お粗末、御無礼を許して下さる。それが親心だとおっしゃる。詫びれば許してやりたいのが、親心じゃと、ね。ところが、その天が恵んで下さる、地がそういう働きをして下さっても、そこん所を、気付かず、ね。神の大恩も知らずに神恩奉謝の生活もできずに、これはいけません。信心はまず、そこから解って行くのです、ね。神恩奉謝の生活と言うのは、そうした、神様の働きを、解らしてもろうて、その働きに対して、お礼を申し上げる生活、どこに、お粗末やら、御無礼やらわからん。人間の事であるから、ね。気が付いて、犯す御無礼、知らず知らず犯す御無礼、そういう、お粗末、御無礼を、詫びて、詫びて詫び抜かせて頂くところにです、それを、黙って受けて下さる、母体にも似た、大地の計らいと言うものがあって、初めて人間の幸せと言うものが、まあ言うなら、約束される、ね。信心させて頂くと言う事は、私共の幸せを約束して下さると同じ事。ところが、同じ信心をするというても、日本国中の、神を拝むっっといった様な、ね。それは、自分の信ずる神ばかり尊びて、他の神を侮る事なかれ、と、おっしゃる。それは、やぶ神、こ神の前をと通っても、一礼をする様な心持ちでと、おっしゃる。木の切り株に腰を下ろしても、立つ時には礼を、言うような心持ちになれよ、ともおっしゃる、ね。けれども、その芯というたら、草木でも、一つじゃ、とこうおっしゃる。一心と言うたら、この方一心だと。この方と言うのは、今、私が申しますような、そういう天地を示しておる様な訳であります。そして、天は、こう言う働きをなさるもの、大地は、こう言う働きをなさるもの、そこん所を、天の恵みに対して、感謝し、大地のお働きに対して、大地にひれ伏した、人間の実意、丁寧の姿といゃあそう言うもんだと思うんですけれども、ね。詫びる姿勢、ね。そこで、なら、私共は、どい言う事になっていかなければならないか。天は青く、地は黒く、ね。中紅の、と、これが人間を、私は、表したものであるとこう思う、ね。青くは天であり、地は黒くである。中紅の、中は、真っ赤な、燃える様な、私は信心の熱情が望まれる訳であります、ね。赤い心とか申します、ね。これは、赤心、いわゆる真心の事なのであります。いかに、中紅のと言う事は、人間が、まともな生活、まともな生き方、しかも、熱情をもって、熱情をかけて、ね。真心の道を歩かなければならないか、と言う事を、私は、あらわしてあるものだ、と、こう思うのです、ね。三色旗にはそう言う深い深い、私は意味あいがあるもんだ、と言う、今朝、ご理解を頂いてから、また一段、そう感じさせて頂きました。神ながらにできておるもんだなあと。天は青く、地は黒く、中紅の、ここに人間の真心の生き方の、しかも、真心の生き方の上に、その信心の、生きると言う事の上においてです、ね。熱情、昨夜は山田さん所の年一回の、謝恩祭でごさいました。本当に有難いお祭りでした。年々、再々、本当の事になっていくとうい事の有難さを、いつも痛感致します。中に頂きました御理解の中に、日に日に、生きるが、信心なり、ね。中紅の中身ですよ、皆さん、今日、私が突こうとしょうところは、日に日に生きるが信心なり。そう言う力強い、ね。死ぬ用意より、生きる用意をせよ、とこうおっしゃる。金光様の信者は、それなんです、ね。もう、この世じゃ、しょうなかて、念仏を唱えて、お経をどんどもあげて、そしてあの世で、お救い頂かにゃあならん、といったようなものではない、ね。日に日に生きて行くと言う事が、信心なりと。日に日に生きるとは、どう言う事かと。日に日に死ぬると言う事が、信心だと決められておるからですね。日に日に生きるが信心という事は、日に死んで行く事だ。日に日に死んで行くから、新しい物が生まれてくる。過去の殼というもの、過去の自分て言うものを捨てて行くのだ、と。自分て言うものが、空しゅうなっていくのだと、ね。それに、何年前の自分が、まあだ、心ん中のあるという事なんですから、これはいけません、ね。厳密に言うと、きのうの私と、今日の私と言うものは、もう違っておらなければと言う事。それには、自分というものを、殺していかなければいかん。日に日に死ぬるが信心である、ね。次におかげ急ぎをするなと、御理解にもありますように、人より一年遅れて分限者になる気になれと。この二つの御理解を、まあ、テ-マにしての、御理解でしたですね。昨日、夕べ、もうそれこそ、人よりか一年ぐりゃあ、早よう、もうけだそうと、人よりか一日ぐりゃあ、早よう幸せになりたいと思うてから、信心しょっとですよ。といつた様なもので、いけないと言う事、人より一年遅れて分限者になる気になれと、ね。その例がですね、福岡の初代、甘木の初代の例を取って、お話させてもらいました、ね。福岡は、師匠であるところの、桂先生の元で、一年あまりの修行であった。そして、早速、布教に出られた。甘木は、七年間、師匠の元で修行された。その間に、沢山のお弟子が出来ても皆、出急ぎをされた。出急ぎをした教会は、たいした事にゃあならなかった、ね。人よりも一年遅れて、と言う事は、ね。もう一年という意味じゃない、ね。じっくり信心を身につけてね。時節を待たせて頂くという、そういう態度だ、と。全然、甘木の先生は、甘木という所を知られなかった。いわゆる、未知の世界である。甘木と言うとこは、先生にとっては、その全然、知人一人いないような甘木に魅入られてからです、もう、あちらに魅入られて、そこそこ、月並祭のたんびに、御信者ふえた。もう大祭のたんびに、お広前が、広うなった。「どうして安武さんとこだきゃあ、あんなに、人が集まって、人が助かるじゃろか。」桂先生がおっしゃった。「安武は、舞台裏の信心が、長かった。」とおっしゃる、ね。お芝居で言うなら、花道に出て、あの七、三に立って決まった時にゃあ、もう大向こうから、ワァ-と言う様な声が、いわばかかった様なものじゃ、とおっしゃる。はぁ一いっでん、早よう布教にでよう、いっときでも、一日でも早よう教会を、こりゃあぁもう、何じゅう年たったって、御ひれいがたたんでしょうが、ね。いかに、そのおかげ急ぎと言う事が、いけないかと言う事が解ります。勿論、只、べんべん、として待つのではない、今日、私が申しました様に、真心とは、赤心とは、信心の熱情をかけて、そこんところへ、わたしども、ね。焦点をおいていくのである。
 きのう、まあ、きのう、おとといだったでしようか、山田さんが、お取次を、右の方の、御結界で頂いた。〈ひろこ〉先生が座とった。ところが、その頂いた事が、かけの字を頂いた【  】もう、その悪い事じゃと思うた、ね。かけの字じゃから、ところがですね。そのかけの字が、どういう事かと、言うとですね例えば、二~三日前、山田さんがお参りしてみえてから、お届けがあったんですけれども。あの辺につむじ風が、吹いたんです。つづまっ風が、あの辺は、たくさん、この畑所ですから、ビニ-ル栽培がさかんなんです。ところがですね。その、山田さんところだけが、つづまっ風が、もって上がってしもうた。こわれてしもうた、ね。信心のない人だったら【  】さわらんけれども、しかも、ああいう手厚い信心をしておられる、山田さんの所だけが、そのつむじ風が、持って行ってしもうた。ひどい風だったらしいですね、こりゃあ、信心させて頂きよってから、こういう事がある。神様の特別な、御都合があった事に間違いない、と言うてから、お礼のお届けが有りました。いわゆるペケの字です。かけの字です。信心しておって、どうしてこの様な事がと。これだけの、いわば熱情と真心いっぱいの、信心を、さして頂いておるのに、どうして、この様な難儀が続くであろうか、どう言う様な事が、例えば続きましてもです、ね。そこを、真実、神様の心を、いよいよ解らせてもろうて、信心を進めて行くという事、ね。信心をさせて頂いて、初めの間は、ね。五と五をたせば十になる、と言った様なおかげを、わからせてもらうんです。やっぱり、信心させて頂いて、拝むと言うだけでも、お取り次ぎを頂いただけでも、これが、おかげじゃろと言う様なおかげが、うけられる。信心しておかげがうけられるなら、この方が、不思議な事じゃろ、とおっしゃる。五と五をたせば十になる事に決まってる。そういう、天地の法則があるです。ところが、五と五をたしました、ばってん八にしか成りませんでした。七にしか成りませんでした。とこう言う。それは、あんたが、計算ば、まちがえとるけん、て、と言う事に成るのです。と言う事に的確なのです、間違いがないのです、おかげというのは、そいいうおかげを、頂かしてもろうて、神様の有難さが解ってくるのです。山田さん達の信心の過去の信心を見ると、そう言うおかげを、受けてこられた、ね。そこで、いよいよ神様が、有り難う成って、最近では、一家をあげての、信心になっておられる。「こりゃあ、お母さん、もう、とにかく夫婦一生懸命、信心させてもろうて、本気で、ほんとの信心を身につけにゃあいかんぞ。」と言うので、夫婦がああして、毎朝、朝の御祈念に参って来る様に、熱心に信心を、求められる様になられた。だから、神様がです。いよいよね、おかげを下さろうという、前提として、このかけの字的なものが、感じられる。そのかわりにです。五と五をたせば、十になるんですけれども、ここんところのおかげを預かせて、もう、そこから、いわば、5×5=25と言う様なおかげを受けられる様になるのです、どんなに考えても、ですね。私共くらいな、信心、また、十何年ぐらいな信心と、こういう、例えば、お広前の、御造栄が、出来ると言う事はです、五と五とたしょったくらいな事じゃ、出来る事じゃなかです。普通で、いきよったら、いくらおかげじゃと言うても、そこにはです、本当に、5×5=25と言った様な、ね。かけ算的な、おかげに成てきたから、こういう、私共が、本当に想像も、し得なかった様なおかげが、実際に、こうやって、現れてきた訳ですよ。それには、皆さんがです、どう言う、かけの字になってもです、場合によっては、血の涙が出るような事があってもです、それを、信心でがっちり、受け止めて、そこから、信心を解らせてもらい、それから、方向を間違えずに、本当の方へ、本当の方へと、進めていったところから、私は、そういう。おかげが受けられる様になったと思うんです、ね。山田さんあたりの場合も、そういう一つの、ね。プラスね、たすの、信心から、もう、かけるの信心に進んでいけよと言う感じが致します。そこから言う信心の熱情が、いわゆる、中紅の、と言うところの信心が、これからできてこなければ、ならんのです。皆さんも、御承知の様に、山田さんと言う方、非常に人物がいい。村内でも、もう、本当に、信望があるんですね。畳屋さんですけども、畳屋さんでも、いつも会計の役は、山田さんに、お願いする。と言う事だそうですが、いかに皆んなからの、山田さんは、間違わんからと言われる様な人物であるか、という事がわかります。皆さんが、御承知の通りですよね。ですから、私は、信心させて頂いてですね。いわゆる、そういう間違いのない事、間違いの無いと言う事は、当たり前の事なんです。いうならば当たり前の事が、当たり前に出来る人物に、まず、ならなければならないと言う事です。もう、あればかりは、倉隅におけん。そういう人物があります、ね。そういう、例えば、人物がです、どういう、例えば、そんなら、人のまねのできん様な信心に、熱情をかけて、例えば、修行させて頂いても、これは、本当のおかげにならんです。かというて【  】いかんです。それに、例えば、中紅のでは、いわゆる、赤心を、そのまま今度は、赤い信心の熱情に、かけなければ、いけません、ね。いわゆる、人のまねのできんごたる修行、といった様な、修行でもそれを、敢然とやってのけれるだけの修行精神が、必要なのです、ね。赤い心が、熱情が、それに真心の人にならせてもらうと言う事は、どういう事かと言うと、特別な事じゃないんですよ、ね。当たり前の事を、当たれ前にしていく、というだけなんです。当然な事を当然な事として、いくだけの事なんです。それに、なんどや信心させていきよって、「あの男は、倉隅におけんばくい。」と言われる様ですね。いわば、人となりであったり、生活状態で、あったんでは、おかげは受られない。中紅の、と言う事に成ってこないのす。私は、今日、皆さんに聞いてもらいましたですね。一番初めに、お教えいたしました、御理解ね。「日本中の神を信心するというけれども、それは余りの信心じゃ。」と言うて、その、「大工を雇うても、棟梁がなかなければならん。」と言う風に説いておられたり、「草木でも芯は、一つじゃ。」と、説いておられたりね。「この方一心と、一心を定めての信心、そこからおかげが受けられる。」と、おっしゃる。その一心をどこに掛けるか、ね。いわゆる、赤い心に掛ける訳だ。とにかく、人間の本当のおかげを、頂いて行くために、ね。まず、神様を知る、ね。プラスの信心から、そして、だんだん信心が解らせて頂いてです。信心させて頂きよっても、雨もありゃあ、風もあるけれども、その雨の中に、風の中に、いよいよ人徳を受けていくところの修行をさせてもろうて、ね。いよいよ、真心の限りを、信心の修行の熱情を、これに傾けさせて貰うと言う所にです、ね。私は、一心をおかなければならないと、そこに、いわゆる、空はね、水色、いわゆる、空は青、ね。限り無く恵まれるもの、地は黒く、限り無く抱擁していって下さる。詫びれば、本当にどういう、お粗末、御無礼でも、本気で、誤る心になりゃあ、許してやりたいのが、親心じゃと。所謂、大地の心、そう言う天と地の心の中にです、私共が、赤い心をもって生活する。そこに、三色旗的な、おかげが約束される、訳なんですね。そこに、なら、当たり前の事を、当たり前になしていこうとする、そう言う人となりを、作らなきゃあいけない。そう言う中にです。心の安らぎが必ず与えられます。あの男ばっかりゃあ、倉隅におかれん。それを私は赤 紅のと、かけるなら、一心を掛けるなら、そこへ一心を掛けなければならん。と言うですね。
どうぞ。